大学卒業後配属されたのは、超電導材料の研究部門でした。
最初はニオブ系の薄膜や線材。社内でも陽があたらない分野で、撤退時期を探しているような状
態。1987年に液体窒素温度で超電導になる酸化物超電導体が発見されると、いわゆる「超電導
フィーバー」が起きて一躍時代の寵児。「日経超電導」が創刊されたのもこの頃でした。
フィーバーにのる形で設立された(財)国際超電導産業技術研究センターに出向して3年。バブル
経済の末期でしたから超電導なんてものにも投資する会社が多かったのです。出向から帰って5年、
超電導研究から離れました。
1996年以降、ケーブルテレビ事業者の通信システムを構築する仕事をしてきました。2006年までの10
間はケーブルモデムを扱っていました。アメリカのCOM21という会社の製品を売り、その後、サムスン
電子のDOCSISモデムを売っていました。一時は、日本市場でトップシェアを誇ったこともあります。
端末だけでなく、シスコ製のセンター装置も扱いました。これも一時は国内の半数を売ったことがあり
ます。誇張ではなく、「日本のケーブルモデムを代表する」という自負を持っていました。
2006年から、無線のプロジェクトが始まり、その仕事をメインにすることになりました。
無線は趣味にとどめ仕事にしないことをポリシーにしていたのですが、ほかに無線の経験者がいない
こともあり、主担当になったのです。当社は社内に相談する相手もなく、しかし、お役所相手に書類を
書かねばならず、苦労もしました。でも、あるとき悟りました。アマチュアでやっていた知識を持ち出せ
ばそれですんでしまうのです。総務省の作業班では、一流中の一流というプロに会い、大したものだと
痛感しましたが、一方で「自称プロ」はアマチュア以下だということも知りました。
2009年に無線だけでなく、技術全体を掌握する立場になりました。私が留守にしていた間にケーブル
モデム事業は壊滅状態になっており、後始末に苦労しました。1996年に始めたケーブルモデムの事業
を自分の手で店じまいすることになったのは、感慨深いものがあります。
2011年には、技術部長を解任され、2012年4月末をもって27年間勤務した株式会社フジクラを退職しま
した。あてもなく退職し、アメリカに遊びに行ったりと無職の生活を楽しんでいましたが、Wi2社に誘われ
7月からWi2で勤務を開始しました。
Wi2で3年弱を過ごしましたが、社長交代により徐々に親会社の色が強くなり、一方でケーブルテレビに
与えられた2.5ギガ帯のことが気になっていました。そんなときにケーブル業界から声がかかり、四日市
のケーブルテレビ事業者に移ることになりました。2017年からはグループ内の異動で新潟県のケーブル
テレビ常駐、四日市兼任となりました。毎週、新潟県と三重県を行き来していましたから、1年間の新幹
線乗車回数が220回を超えたときもありました。
2021年にケーブルテレビの取締役を退任して、非常勤になりました。いえ、悪いことをしたわけじゃなく、
定年ということです。引退して引きこもりになるのもつまらないので、新しく会社をつくることにしました。
一時、親の会社(といっても3ちゃん商業)の取締役にされていたのですが、役員報酬をもらわないうち
に有限会社ナカガワは解散してしまいました。