中川家の出自
先祖は新潟県津南の坊主兼百姓でありました。下野国の高田山専修寺
にやってきて居ついたのがはじまりです。明治初めに三谷草庵に住んで
いたことがあるという口伝がありますが、真偽不明。本姓は柳澤。
その後、家を建てるために土地を買ったら「中川」という姓がついてきた
(父親談)そうです。もとは小さなお寺があった土地だそうですから、その
家督を継ぐという形だったのではないかと思います。祖父は中川教学、
祖母はタマキ。タマキは津南の出身です。
母方は為我井氏。戦国末期からの名主だそうです。従兄弟にアニメに
関わっている為我井克美がいます。ライトノベルを書いている為我井徹も
遠縁だそうですが、会ったことはありません。
誕生
1959年(昭和34年)9月1日に生まれました。本当は9月後半の予定だっ
たそうですが、8月30日に母方の祖母が急逝し、そのショックで産気づいて
しまったそうです。母親の実家からタクシーでもどる途中、一時は道端で生
む覚悟までしたといいます。父は中川栄治、母は幸子。名前は、そのころ父
親が好きだった三島由紀夫からとったそうです。三島由紀夫というわけです。
生まれたのが関東大震災、二百十日、そして三島由紀夫とくれば強い子に育
ちそうなものですが、軟弱に大きくなっていきました。
その後、弟晴夫、妹ヒロミが生まれます。
幼稚園
近くのお寺の経営する「せんだん幼稚園」に入りました。園のロゴは白い象で
したが、これは普賢菩薩の乗り物からきたのでしょうね。
幼稚園時代は、ついに10まで数えられませんでした。お風呂からあがるのに
苦労した記憶があります。親は将来を悲観したそうです。(←親が結婚披露宴
でそういう挨拶をしました)
小学校
町立久下田小学校に入学。数は数えられるようになったものの、運動は苦手でした。
中学校
町立久下田中学校に入学。卓球部に所属しました。3年生の時は部長だったの
ですが、試合には出してもらえません。「部長にすれば練習に出てくるだろう」とい
うのが唯一の理由でしたから、むりもありません。
高校
県立真岡高校に入学。あまり勉強した記憶がありません。試験の前日は、「頭を
すっきりさせる」と言ってさっさと寝てしまう生徒でした。したがって、テストの成績
がよいわけがありません。
人並みに大学受験することになり、模擬試験を何度も受けるのですが、志望校に
合格するという判定は一度も出たことがありません。「志望校変更が望ましい」とい
うものばかり。先生も友人も「やめておけ」というばかり。まあいいかと思って受けた
ら、不思議なことに合格しました。ちなみに、ほかは全部落ちました。よぶんな入学
金をはらわずにすんだのは、親孝行でありました。
大学
大学合格はまぐれでしたが、入学したらアマチュア無線部に入ろうと、ひそかな決意
をもっておりました。私の高校時代に2年連続日本一の記録があったからです。受
験校の選択も、実はそれが理由だったのかも知れません。無線部に入ってみると、
へんな奴ばかりがいてふしぎと気持ちが落ち着くところでした。
数学、物理が苦手なのに理科系に入ったものだから、教養での成績は低迷。ただ、
教養時代に小田島雄志、高橋康也氏に教えを受けた(教養の英語だけですが)のは、
誇りであります。延広真治氏には江戸文学を習いました。
後年、石井AQ氏と同級生だったことを知りますが、面識があったわけではありません。
専門は金属材料学という学科でした。これもあまり授業に出た記憶がない。それでも
大学院に進むことになりました。指導教官は阿部秀夫教授で、きわめて優秀な学者で
あり教育者でありました。修士課程の最後の半年は、ほとんど研究もせず、無線ばか
りしていました。JAMSATに所属し、日本のアマチュアパケット通信の草分けのひとり
でした。
就職
東京に会社があり、無線の関係で知っていたこともあり、藤倉電線(現フジクラ)という
会社に就職しました。卒業したら金属から足を洗おうと思っていたのですが、そうは問
屋がおろしません。超電導研究室というところで金属系の超電導をすることになりました。
しばらくして酸化物超電導の大フィーバーが勃発、否応なくその渦に巻き込まれていくこ
とになります。
超電導工学研究所
フィーバーついでに財団ができ、そこの研究所に出向することになりました。毎日仕事も
せずに卓球ばかりしておりました。学会発表もしたけどね。
結婚
出向中に何を思ったか、女性を紹介しようなどという奇特な人がいて、結婚することにな
りました。その後、子供も産まれました。妻は新津氏。
転職
転社にあらず。
いつまでたっても実用化しない超電導にも飽き、異動を申し出る。少し待てという上司の
言葉。
「少し待て」の4年目、「超電導の研究組合に出向せい」はさすがに断りました。紆余曲折
があって、「LAN技術部」というところに異動。希望を完全に通したこともあり、もとの上司
はご不満。でも、部下に何か言われたからって、下向いて黙っちゃいけないと思いますよ。
ケーブルモデム担当
LAN機器の品質保証その他を担当してましたが、ケーブルモデムに担当がえ。良くも悪く
も、フジクラのケーブルモデム事業を代表する存在でした。やってることは高周波技術とネ
ットワーク。なぁんだ、大学時代のアマチュア無線と同じじゃないか。
DOCSISモデムの製造元を切り替えて、ケーブルモデム担当は2006年に終了しました。
WiMAX担当
どういうわけか無線に手を出すことになり、その担当になりました。「無線なら中川だろう」と
いう根拠のない短絡的な発想によるものです。「無線は趣味だけで仕事にはしない」というポリ
シーでしたが、プロの中に放り込まれることになりました。長年、「一流のアマチュアは、三
流のプロに優る」を信条としてきましたが、間違いだったことを知りました。「一流のアマチュ
アは、一流のプロに伍していける」が正しいようです。自称プロの中に、困ったちゃんがたくさ
んいることも知りました。当時の座右の書は「The ARRL Handbook」でした。この本に無線
技術すべてが書いてあります。
転社
今度は転職に非ず、転社です。
2011年に理由の説明もなく部長を解任されました。2012年春にはWiMAX事業の見直しがあ
り、これを機に退職することにしました。
なんのあてもなく退職し、3か月近く無職の生活を送っていましたが、旧知のWi2社に誘われ
就業することになりました。
転社その2
Wi2で2年勤務するうちに社長がスピンアウトし、親会社からおおぜい人がやってきて、仕事の
仕方もかわっていきました。そんなある日、WiMAX時代の元上司から電話があり、いきなり
「そこやめて、こっちへ来いよ」 おいおい、同僚が聞いてる。
そんなこんなで四日市に単身赴任することになりました。自身のライフワークと信じるケーブル
テレビの無線サービスが新しい仕事です。
そこから2年、長岡市に異動しました。新潟県は父祖の地ですから、150年ぶりに故郷にもどっ
たのかもしれません。
よってくだんのごとし